東高木家  旗本東高木家陣屋跡 平成19年5月2日土蔵の最新画像をアップ!
 東高木家は、初代が藤兵衛貞友で斉藤道三・織田信長に仕え、信長の死後は、信長の三男信孝に仕えました。信孝の死後所領の身の駒野城に閉居していました。貞久の死後は貞友が家督を継ぎ、信長の次男信雄に属しました。信雄が配流されると甲斐の国に赴き加藤光泰の許に萬居し、朝鮮の役に参加。慶長2年(1597年)家康に召され、関東におもむき、上総の国望陀郡内六十石にて知行のち五百石を知行しました。関ヶ原合戦後、時・多良にて1000石に加増、二条城、駿府城の普請奉行を勤める。大阪二役に戦功あり。 辻下栄一 著:入郷400年記念誌 水奉行 旗本高木家 交代寄合美濃衆 より
 東高木家は、旧伊勢街道の東側に位置していた。昭和の時代に役場や農協があった位置です。
現在残っているのは、旧伊勢街道沿いの蔵と大きな松ノ木、そして屋敷に植えられていた梅の古木が1本が我が家の玄関横に移植されて残っています。
屋敷は、旧伊勢街道に面した長屋と高塀に囲まれ敷地は約900坪、屋敷全体の畳数306畳、戸障子420本と記録に残されています。
東高木家屋敷跡からのパノラマ(クリックすると大きくなります)
東高木家屋敷絵図(筒井稔氏所蔵) 1977年(享保7年)の絵図 資料館で見る事ができます
歴史資料館には、左の鳥瞰図と現地調査を元に製作された高木家跡地の模型が置かれています
西高木家の子孫 高木貞勝氏所蔵の鳥瞰図 この図は昔実物を見せて頂いた記憶があります。中央の黒い筋が伊勢街道で下が東高木家屋敷です。
東高木家屋敷跡の石積
2004年(平成16年)1月東高木家屋敷跡の東側の竹藪が急傾斜地の対策工事が行われることになり竹が切られました 丁度上の鳥瞰図の右下部分が東高木家の屋敷です 竹や木が切られた崖にはりっぱな石垣が積まれていました 知らせを聞いて写真を撮りに行ったとき煮は既に吹きつけの下に張る金網で覆われていましたが何十年かぶりに出現した石積みをみて感激しました 右上に我が家が見えます左は昔上石津町役場と農協が建っていました 東高木家の屋敷も高台にあり自然要塞です 現在は工事で竹藪の一部が伐採されているだけですが、数年かかって大神神社より上流まで工事が実施されると、高台にあった当時の屋敷跡の地形が一目で見えるようになります 一部最上段に石垣が残っていますが、工事をはじめる前には中段あたりまで斜めに降りる道が付いていて丁度水が出ている少し下流地点に石積みを積んだ池のような場所がありました
現存する東高木家の土蔵 多良 高木家陣屋跡図
少し前に古本屋で見かけた「美濃の城郭???」そんな本に多羅城って掲載されていました、そこにあった古い高木家周辺の地図 まだ多良小学校が東高木家の道を挟んだ反対側にある地図なので昭和初期かな 数日後その本は、売却されてもうありませんでした 幸いにも参照元を控えておきました「岐阜県史蹟名勝天然記念物調査報告書 多良高木家陣屋史図」 そして大垣市図書館で見つけたこの報告書 昭和7年か8年の報告書でした。
旧伊勢街道沿いに建てられた東高木家の土蔵は昭和54年に漆喰の塗りなおしなど修復されました。
現在は、また表面の漆喰が剥がれ落ちてしまいまいたが、近々修理がされると聞いています。
この写真は2007年5月2日の撮影です。
現在の土蔵の様子は、こちらをクリックしてください。土蔵を撮影したページに移ります。
1920年(昭和5年)頃の東高木家屋敷(高木貞勝氏所蔵)
左に見える木が梅の古木です。
昭和初期の多良自動車会社 左の建物は共済組合(入り口が南向いています) 昭和50年頃の共済組合 右隣に役場の建物が写っています
昭和59年の役場 上石津町30年誌より 昭和50年の役場 前の車と人物は無視してください 昭和44年の役場 町制施行記念誌より
老朽化のため取り壊された旧共済組合事務所と東高木家屋敷から残る寒梅の古木 現在は少し東側、玄関横に移植されています
東高木家屋敷時代から残る松の大木
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