西高木家 2007年5月6日 埋門付近のパノラマです
埋門石積み修復作業 2007年3月 四季の移り変わりと共に色んな顔を見せて
くれる高木家の四季をまとめました
秋のモミジ(モミジを増やしたい) 昭和40年代の西高木家の様子
多良城は西高木家陣屋跡で、牧田川と加龍谷川に囲まれた高台に位置している。特に西側と北側は、谷川に向けた断崖となっていて自然要害の地となっている。
陣屋の周囲には石垣が築かれているが特に埋門付近の石垣が見事に残っている。
石垣はごぼう石で上に行くほど反ってオーバーハングしていて簡単
には登れないような工夫がされている。(これは、私が小さい頃忍者ごっことしてこの石垣を良く
登った時の感想で機能的なものか構造的なものか
ちょっと詳細は調べていない)丁度我が家の前が埋門で小さな頃はこの埋門の上に大きな松の木が植わっていた。
陣屋の東側は旧伊勢街道が走っている。
高木家は現存する西高木家のほか
東高木家、北高木家があり高木三家と呼ばれていた。道路脇には東高木家の土蔵が今でも残されている。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いまでは関一政が多羅3万石を領していたが、戦いの後伊勢亀山に移封になり、替わって高木貞利が関ヶ原の戦いの戦功により
2,300石で入封し、現在の宮の地に陣屋を構えた。
高木家は、本家を西家(元美濃今尾城主)、分家として東家(高木貞友:1,000石/元美濃駒野城主)、北家(高木貞俊:1,000)があった。貞俊は、貞久の孫
(貞家の子)であるが、貞久の養子となり北高木の
祖となった。
以後一族3人で隔年に参府するのを代々例として明治維新に
至った。いわゆる参勤交代であるが、旗本でありながら大名格を与えられ普請奉行として活躍したそうだ。
普請奉行とは、お城の石垣などの修理な
ど今でいう土木工事の監督の役割で木曽三川改修の宝暦治水工事の監督としても有名だ。
さすが普請奉行、屋敷を取り巻く石積みは本当に見事で素
晴らしい造形美を見せてくれる。
高木氏は南濃一帯に居を構える土豪で、高須城主の高木十郎左衛門盛兼を核に、駒野城主の九郎左衛門帯刀、津屋城には八郎兵衛正家と一族で固め、一族
ほぼ揃って西軍に属していたが、ただ一人貞友だけは東軍に属してい
た。この貞友は彦左衛門貞久の子で通称藤兵衛といい、慶長二(1597)年に家康に召されて仕え
、翌三年には上総望陀(もうだ)郡で五百石を領してお
り、関ヶ原合戦の後は美濃上石津郡で千石余を与えられ、多羅郡に住んだとされる人物である。この貞友が高木
東家の主である。

旗本西高木家陣屋跡(屋敷跡に設置してある史跡説明図より)

(平成八年七月九日 岐阜県史跡指定)
西高木家の遺構高台にあり、見上げる石垣、裏を取り巻く中谷川、加竜谷川が天然の要塞を作っている。土地の面積は一万七千三百八十四、二三平方メートルである。
・埋門   文化一二年(一八一五)に完成、現在石積みのみ残る
・表門   嘉永五年(一八五二)十一月建設
・主屋   明治二十九年(一八九六)十一月建設
・井戸   三基(井戸館なし)
・墓石群  関ヶ原合戦後、入郷以来の歴代領主とその一族、約四十基がある。
高木家の歴史
 高木家は、清和源氏源頼親を祖とし大和の高木村に住み氏とした。  その後伊勢国に移り室町時代の中頃には美濃国石津郡駒野に住し斎藤道三や織田信長に従い
駒野、今尾を与えられこの地方を根拠としていた。信長亡き後は信雄に従い、秀吉により信雄が秋田に遠流されると貞利は一族と共に甲州(山梨)の加藤光泰の許へ寓居
した。文禄四年貞利は徳川家康に召され上総国で千石を与えられ、慶長五年関ヶ原の軍功により時・多良郷の内、貞利(西家)二千三百石、貞友(東家)千石、貞俊(北家)
千石を拝領、翌六年入部した。この三家は交代寄合美濃衆といい、大名格で寓せられ参勤交代を行い江戸期を通じ在地して所領や周辺の治安維持に当たり明治に至った。
また、寛永元年 以来国役普請奉行を勤めこの後水行奉行に任ぜられ濃・勢・尾州の川通りを年々巡視し水利治水事業に当たっていた。

表門、今から150年前に建てられた門である。明治中期に現在の場所に移転されたと記録にあるが、元々は 南に100mほどの場所にあった。
経年により老朽化が進んでいた屋敷も近年改修が加えられ表門も立派に改修された 鬼瓦の高木家の紋 昭和30年、40年台には、表門の東側にも長屋倉庫のような屋敷があり入り口には、大きな木の筒に螺旋状の物が 入った水を送るポンプ道具のような物が有った記憶がある。
歴史資料館 手前の広場は、多良中学校の跡地 埋門の上にある高木三家入郷地の記念碑 現在も残る埋門の跡
石積みの下に見える側溝のような構造物 綺麗に積まれた石積みは、職人技である。コンクリートも使わず、これだけの石の構造物を造り何百年経った現在 でも立派に機能していることは本当に素晴らしいの一言である。さすが二条城や駿府城の普請奉行に携わってい た高木家である。
何処かで見たって記憶があって資料を探していたら「ひらけゆく郷土」にアルキメデスポンプについて書かれていました。これを高木家の長屋倉庫の前で見たんです。
屋敷の入り口を少し北へ下ったところにある大きなカーブ、この高い石積 みの上が西高木家の屋敷である。 屋敷から見た笙ケ岳
この鎧は、甲の所に高木の紋が入っています 
高木家の屋敷跡で素晴らしいのはやはり石積でしょう 新たに撮影してきました 撮影 平成14年2月19日
2007年5月 埋門付近のパノラマを撮影しました
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